🍃 音に満ちた孤独

律にとって世界は、音で満ちすぎていた。
遠くで軋む電車のブレーキ音は、
金属をこすり合わせたように長く尾を引き、
駅構内の人工的なアナウンスは
乾いた響きで空気を震わせた。
誰かが発した何気ない一言に
滲んだ感情のひだは、
低くも高くもない中途半端な揺れをもって、
律の胸の奥に入り込んでくる。
それらはただの音ではなく、
鋭利な粒子となって
心の内側をざらざらと撫で、
時にチクチクと皮膚の内側にまで
染み込んできた。
耳を塞いでも、音は骨や皮膚を
伝って届いてくるようで、
脳はそれらをノイズに変換し、
やがてシャットダウンしてしまう。
都市の音から逃れるように
森へ向かった律は、
音を「聴く」のではなく、
自分の存在そのものが森の響きと
「調和する」場所を見つけた。
そんな律の奥に、
かすかに残る“かつての音”がある。
母の体内で聴いていた、
羊水越しの声
──鼓動と重なるやわらかな語りかけ。
あるいは歌。
それは湾曲した水の振動のように、
ゆらぎながら、律の全身に届いていた。
意味を持たない、
ただそこに“いる”ことを伝える波形。
今もどこかで、律の身体はその音を探していた。
🍃 風と葉の調律

街の音に追われるようにして走り出した。
駅のアナウンスの鋭い声は、
もう背後でかすれ、
信号の電子音や工事の打音も、
空気の厚みに遮られていく。
足を進めるごとに、
そのノイズの輪郭が少しずつぼやけ、
苦音の滞留時間が短くなっていくのを
律は感じとっていた。
舗装道路が土に変わり、
カサッと落ち葉を踏んだ瞬間、
自分の足音がとてもやわらかく聞こえ、
音が変わった
──そう思った。
風が木々をすり抜け、
鳥の声がふいに届く。
けれどそれは、
まるで“話しかけるような音”だった。
律の耳は、はじめはまだ都市のざわめきの
名残に覆われていたけれど、
森の奥へ進むほどに、
かすかに後ろで聞こえていた車のエンジン音も、
電線のうなりも、遠くへ遠くへと
小さくなっていった。
耳を澄ますと、そこには音の重なりがあった。
葉擦れ、小川、虫たちの気配、
枝をわたるリスの音
──そのひとつひとつが、
人工音とは異なる“丸み”を持ち、
心の中のノイズと入れ替わるように、
ゆっくりと、身体にしみ込んでいった。
まるで、見えないラジオチューナーが、
静かに“自分の存在”へと
周波数を合わせていくように。
🍃 音色の中のわたし

森の奥。
朝靄がゆるやかに流れる場所で、
律は立ち止まった。
あたりはほのかに白くけぶり、
音のカタチさえも柔らかくにじんでいる。
風が葉をかすめる音は、
まるでパイプオルガンの息吹のように、
空気を含みながら深く温かく震えていた。
その響きにあわせるように、
朝靄に溶けた光がゆらぎ、
音と色とがひとつの波となって漂っていく。
律の鼓膜だけでなく、
肺の奥、骨の髄へと
その響きが届いてくる。
耳はもう「聴こう」としてはいなかった。
ただ律の存在そのものが、
森に漂う振動と溶け合っている。
そのとき。
ふいに、ひとつの羽音が律の頭上を
すべり落ちてきた。
それは音というより、気配。
静けさの中に編み込まれた
“ひとひらの音の欠片”
──それが胸の奥でふわりと響いた。
小さな旅鳥がそっと枝にとまり、
肩先へと目を向けた。
何も語らずとも、
その存在はまるで「おかえり」と
歌っているように。
律の中に、幼いころ聴いたあの柔らかな声が、
波のようにかすかに重なっていく。
胸の奥の鼓動はゆるやかになり、
息が深く満ちていく。
静けさは、音の不在じゃない。
それは、「自分の在り処が、
ほかの響きとやわらかく調和する場」だと
胸の奥で知った。