煌めきの種|第1章 §4:匂いの奥に眠る風景 ~蒼空~

煌めきの種

🍃 香りを失くした空白


蒼空にとって、香りは世界の地図だった。




朝のパンの焦げた香ばしさが

「家」の位置を教え、

雨上がりの土の匂いが

季節の境界線を引いていた。






けれど、ある日を境に、その地図は色あせ、

輪郭を失った。



街路樹の花も、焙煎した豆も、

ただの空気に紛れてしまう。


地図を失った今、

蒼空は自分自身がどこにいるのか、

わからなくなっていた。






匂いがない世界は、不思議なほど静かで、

同時に底なしの広さを持っていた。





思い出すために顔を寄せても、

そこにあるのは“無”の感触。



呼吸をしても、何も届かない。


──そんな日々が重なり、蒼空は知らぬ間に

深呼吸を避けるようになっていた。






「僕の中の何が、欠けてしまったんだろう」



胸の奥で問いが膨らんでは萎み、

答えのないまま宙を漂っている。



🍃 風に紛れた記憶のかけら


ある午後、古い机の引き出しを開けたとき、

紙の間から小さな袋が転がり落ちた。




薄紫の色をした乾いた花


──祖母と摘んだラベンダーの香草袋だった。





手のひらで包み込むと、かすかに甘く、

土を含んだ香りが漂った。



驚くほど儚く、

それでいて確かな温度を持った匂いが、

鼻先から胸の奥へと滑り込んでくる。





その瞬間、記憶の景色がひらく。



夏の庭、蜂の羽音、風に揺れる紫の穂。

祖母の背に回した腕の感触と、笑い声の響き。





それは“完全な再生”ではなかったが、

眠っていた感覚の芽が静かに膨らむのを

蒼空は感じた。





香りは過去を呼ぶだけでなく、

胸の奥の乾いた土にも水を与えていた。


🍃 大地の息を吸い込む


その翌朝、蒼空は香りの記憶をたどるように

tomarigiの森へ向かった。





森の入口で立ち止まり、深く息を吸う。




冷えた空気の中に、湿った葉の匂い、

苔の柔らかな青み、遠くで咲く花の甘さが、

層をなして重なってくる。




ひとつひとつは淡くても、

重なり合うと豊かな響きをもつ

香りの交響曲だった。





足を踏み出すたび、空気の温度が変わり、

香りは濃くなったり

薄れたりしながら形を変える。





やがて辿り着いた小さな泉のほとりで、

蒼空はそっと目を閉じた。






香りはもう記憶の再生ではなく、

今この瞬間の森が吐き出す“息”として届いていた。





息を重ねるたびに、胸の奥のこわばりがほどけ、

乾いていた地図に、

湿りを帯びた細い道がすっと現れる。





森の匂いは、過去の記憶を

呼び起こすだけでなく、


呼吸を重ねるたびに

彼の内側へと染み渡り、



乾いていた地図に

「いま」へと続く道を描き始めた。




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