🍃 記憶の中のあたたかい味

マロンはゆっくりと目を閉じると、
懐かしい味が舌の奥にふわりと舞い降りた。
祖母のキッチン、家族が囲んだ夕暮れの食卓。
湯気の向こうから聞こえる笑い声にまぎれて、
過去の味たちがやさしく浮かんでくる。
温かなかぼちゃのポタージュは、
舌を包みこむようにまろやかで、
焦げ目のついたパンからは、
香ばしさと小麦の甘みがにじみ出た。
オーブンで焼かれたチーズは、
塩気の奥に静かなコクを残し、
とろりと心も溶けていったことがあった。
家族の前では、味だけでなく、
気持ちまでも自然にほどけていたのね。
なかでも、誕生日に母が時間をかけて
作ってくれたマロンケーキ。
濃厚な栗のクリームが、甘さとともに
あっというまに口いっぱいに広がり、
しあわせだった。
けれど、そんな味たちは、
忙しない暮らしの波にのみこまれて、
気づけば心の奥でそっと固まり、
結晶のように動かなくなっていた。
「完璧な思い出の味」に固執するあまり、
現実の不完全な味覚から目を背け、
新しい味に出会うことを
怖がっていたのかもしれない 。
「これでいいのかな……」
その小さな問いが胸の内で揺れたとき、
窓の隙間から風がひとすじ通り抜けた。
かすかに口の中があたたまり、
忘れていた感覚が静かに目覚めていく。
その瞬間、
固くなっていた記憶の味が、
ほんのすこしだけ、
やわらかくなった気がした。
マロンは、そっと息を吸い込み、
一歩だけ前に出た。
名はまだないのに、たしかに呼ぶ気配。
——懐かしい風が、
森の方向をそっと教えてくれた。
🍃 森からの贈りもの

森に入った瞬間、
普段と少しだけ違って感じた。
ひんやりしているのに、どこかやわらかくて、
まるで口の中を流れる風が、
舌をとてもやさしくなでるようだった。
目線を下におとすと、
まだ名も知らぬ小さな新芽が
顔をのぞかせていて、
その緑がそっと風に揺れるたび、
舌の奥がちりちりと反応した。
しばらく歩くと、苔むす石のかたわらに、
野イチゴがいくつか実っていた。
木漏れ日に照らされて艶やかな深い赤。
ひと粒、指でそっとつまんで、
口に含んでみると、
……甘さよりも先にわずかな酸味が、
きゅっと舌を刺し、
そのあとに皮のざらつきが、
じんわりと広がっていく。
えぐみも、種の粒も、
飲み込む時のひっかかりさえ、
すべてがむき出しで、
正直な“味”だった。
過去の味覚の記憶を上書きするのではなく、
固く閉ざされた心を解き放つ鍵だった。
味覚は、それらひとつひとつに歓喜し、
戸惑いながらも目を覚ましていく。
——ああ、これは誰の手も入っていない。
自然そのものの輪郭。
完璧じゃないからこそ、
こんなにも豊かなんだ……。
そのとき、味覚だけじゃない、
私の奥の奥にまで風が届いた気がした。
新芽が陽に向かってそっと葉をひらくように、
マロンの味覚もまた、
「いま」へ向かって、
静かにほどけていった。
🍃 ひとしずくの目覚め

朝靄の濃い甘さの中に、
ぽつりと、
ひとつの果実が落ちていた。
見上げると、木の枝の先には、
いくつかの実がまだ光をまとって揺れていた。
ほんのり赤く透けた果皮にそっと触れると、
それは、まだ息をしているみたいにやわらかく、
掌にのせた瞬間、音もなく、
ふわりと割れた。
その果肉の奥から、
透明なしずくがひとすじ流れ落ちて、
指先を伝って、わたしの舌へと届いた。
……甘くもなく、酸っぱくもない。
名前も記憶もまとっていない、
それは「今」そのものの味だった。
思い出すことも、意味づけることもできないのに、
それはたしかに、わたしの味覚にやさしく触れた。
「思い出さなくても、いいんだね……」
そのことばが、自分の奥から
ふと生まれてきた瞬間だった。
舌の奥に、かすかな温もりが残っていた。
味覚が、その一滴をとおして、
過去でも未来でもない「いま」の自分を、
静かに見つけていた。
マロンは、目を閉じて、
確かめるようにもう一度、味わってみた。
もう、誰かが用意してくれた味ではない。
この味は、
過去の記憶に囚われていた私自身が、
不完全な「いま」を受け入れることのできた
「あたらしい味」だった。