🍃 香りを失くした空白

蒼空にとって、香りは世界の地図だった。
朝のパンの焦げた香ばしさが
「家」の位置を教え、
雨上がりの土の匂いが
季節の境界線を引いていた。
けれど、ある日を境に、その地図は色あせ、
輪郭を失った。
街路樹の花も、焙煎した豆も、
ただの空気に紛れてしまう。
地図を失った今、
蒼空は自分自身がどこにいるのか、
わからなくなっていた。
匂いがない世界は、不思議なほど静かで、
同時に底なしの広さを持っていた。
思い出すために顔を寄せても、
そこにあるのは“無”の感触。
呼吸をしても、何も届かない。
──そんな日々が重なり、蒼空は知らぬ間に
深呼吸を避けるようになっていた。
「僕の中の何が、欠けてしまったんだろう」
胸の奥で問いが膨らんでは萎み、
答えのないまま宙を漂っている。
🍃 風に紛れた記憶のかけら

ある午後、古い机の引き出しを開けたとき、
紙の間から小さな袋が転がり落ちた。
薄紫の色をした乾いた花
──祖母と摘んだラベンダーの香草袋だった。
手のひらで包み込むと、かすかに甘く、
土を含んだ香りが漂った。
驚くほど儚く、
それでいて確かな温度を持った匂いが、
鼻先から胸の奥へと滑り込んでくる。
その瞬間、記憶の景色がひらく。
夏の庭、蜂の羽音、風に揺れる紫の穂。
祖母の背に回した腕の感触と、笑い声の響き。
それは“完全な再生”ではなかったが、
眠っていた感覚の芽が静かに膨らむのを
蒼空は感じた。
香りは過去を呼ぶだけでなく、
胸の奥の乾いた土にも水を与えていた。
🍃 大地の息を吸い込む

その翌朝、蒼空は香りの記憶をたどるように
tomarigiの森へ向かった。
森の入口で立ち止まり、深く息を吸う。
冷えた空気の中に、湿った葉の匂い、
苔の柔らかな青み、遠くで咲く花の甘さが、
層をなして重なってくる。
ひとつひとつは淡くても、
重なり合うと豊かな響きをもつ
香りの交響曲だった。
足を踏み出すたび、空気の温度が変わり、
香りは濃くなったり
薄れたりしながら形を変える。
やがて辿り着いた小さな泉のほとりで、
蒼空はそっと目を閉じた。
香りはもう記憶の再生ではなく、
今この瞬間の森が吐き出す“息”として届いていた。
息を重ねるたびに、胸の奥のこわばりがほどけ、
乾いていた地図に、
湿りを帯びた細い道がすっと現れる。
森の匂いは、過去の記憶を
呼び起こすだけでなく、
呼吸を重ねるたびに
彼の内側へと染み渡り、
乾いていた地図に
「いま」へと続く道を描き始めた。